石川五右衛門と白波五人男、オノコロ交響曲:このところの健康ブームと関係でもあるのか、地方の家庭には最近まで残っていた「五右衛門風呂」が、今ちょっとした人気商品になっているのだとか。もちろん、その名前の由来は、あの石川五右衛門(いしかわ・ごえもん)さんからきています。お芝居の世界で有名になったことから、架空の人物だと思っている方も多いようですが、彼は安土・桃山時代を生きた実在の大泥棒で、同時代の公家・権中納言山科言経(やましな・ときつね,1533~1611)が残した日記『言経卿記』文禄三年(1594)八月二十四日の項に「庚牛、天晴」とあり、続けて、「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり。」と記されているのが五右衛門の最期らしく、この「同類十九人」には実の子供と彼の母親も含まれていたようです。この時代でも珍しい極刑の執行を一目見ようと都の「貴賎」が川原に群がり集まったと言経は伝えていますが、子供の最期については巷説が幾つかあり、「 五右衛門が息絶えるまで、我が子を両手で抱え上げていた」とするものがある一方、「五右衛門は自分の子供を踏み台にして逃れようとした。 子供が苦しまないように即死させた。」と正反対の風聞も伝わっているような有様、ただ、この「貴賎」の一人であったに違いない行動派の言経も盗人の名前までは書き残してくれていないので、これが本当に五右衛門さんだったのかどうか、今となっては知りようがありません。その他の資料で五右衛門の存在を確かめようとすれば、半世紀余り後の寛永十九年(1642)に編集された『豊臣秀吉譜』という書物に、文禄の頃、石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので「秀吉が京都所司代の前田玄以に逮捕させ、母親以下同類二十八人と共に三条川原で煎り殺した」とあるのを信用するしかありません。また、歴史の専門家によれば「言経卿記」そのものも、どういう訳か「歴史上の重大事件が起こったとされる日付の部分の殆どが欠損」しているらしく、その記述内容の信憑性を危ぶむ向きもあるそうです。まあ、信じるしかない、といった頼りなさはあるのですが、丁度、同じ頃、日本に滞在していた貿易商人アビラ・ヒロンの書いた書物にも「都を荒らしまわる盗賊団があり、其の中の15人の頭目が官憲に捕えられ、京都三条の川原で生きたまま煮られた」(『日本王国記』1656年著)という記述があり、当時イエズス会の京都修道院長だったペドロという人物が、これらの盗賊の首領の名前を「ixicava goyemon」だったと注釈しているそうなので、五右衛門の実在を疑う余地はないでしょう。最後のスペイン語の表記だが、「し」の音が「xi」と表記されている。これは「shi」という音がスペイン語にはないため「x」を割り当てたもの。「Mexico」の表記も同じこと。
「煎り殺す」とか「生きたまま煮る」とか、ずいぶんと残酷な話だが、秀吉が特に残酷であったとも言えない。あの時代は世界中がそういう時代だったのである。20世紀になってそういうことはしなくなったのだが、時代は一方向に進むばかりではない。最近の「文明人」は、昔の人はあまり口にしなかったアワビの「地獄焼き」や鮮魚の「活き作り」を嬉々として召し上がっているし、生類憐れみの令を出した綱吉は「犬公方」と古くさいと馬鹿にされる始末。この意味では食生活の残酷化は昔以上に進展したとも言える。要は、時代の流れとして人は平和で温和しくなるのではなく、時代時代で「基準」が変化するだけの話なのである。
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